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プロランナー、川内優輝選手ーー。世界各国のマラソン大会で好成績を収め続け、陸上好きからトップレベルを目指す若いランナーまで、多くの人のロールモデルになっている。

それだけではない。2009年2月1日の初マラソン(別府大分毎日マラソン)以来、川内選手はほとんどのフルマラソン大会を2時間20分以内で完走。ギネス世界記録「マラソン2時間20分以内における最多完走数|Most marathons completed under 2 hours 20 minutes」に認定されている。

そんな川内選手は、今までどのようにランニングと向き合ってきたのか。そしてどのような人生観を持ちながらプロランナーを全うしているのか……。ギネスワールドレコーズの編集部は、川内選手とのインタビューを通じてこれらを問うことにした。

Yuki Kawauchi being interviewed

旅とランニング

川内選手がランニングに出会ったのは早かった。丈夫な体を運動で育んで、健康に育ってほしいと言う親の思いがきっかけだ。親はこのころから、長距離走での強さを感じていたようだと、川内選手は語る。

「幼稚園のときに短い距離では遅かったようですが、長めの距離になると粘り強く頑張っていた様子が見られたみたいです。だから「長い距離の方がいいんじゃないか」と言うのはあったみたいです」

6歳にちびっこ健康マラソン大会に出場し正式なランニングデビューを果たす。レベルアップのために川内選手の親が用意した練習メニューはただ1つ――全力疾走だ。少年時代の川内選手は、ハードなトレーニングに辛さを感じることもあったが、自己記録を大きく更新して親からご褒美がもらったり、大会で上位に入賞し賞状をもらったりすると、喜びを感じたと言う。

第7回川内の郷かえるマラソンにて、トップ走者にエールを送りながら併走する川内選手

そして小学校4年生になると、市民マラソンの小学生の部に出場するようになる。その市民マラソンをきっかけに、川内選手の人生におけるもう1つの軸となるものに出会う。

「小学校5,6年生になると埼玉県内を中心に、ときには栃木の大会に行きました。それはまるで小旅行みたいでした。走って、おいしいものを食べて、温泉に入って、車で帰ってくる。旅行がとても好きだったので、一生懸命走ると旅行もついてくるし、「今度ここにマラソン大会があるから、行こうよ」といったふうに、ランニング雑誌を読みながら親と一緒に次に出る大会を決めるのも楽しんでいました」

小学校時代、川内選手は市民マラソンの大会で優勝したことはなかった。2位入賞が1回あったものの、他はほとんどが3位だった。市民マラソンで初優勝するのは、中学3年のときに出場した桶川市紅花マラソン大会(5キロ)まで待たなければならない。

強豪校

川内選手が通った中学校は特段陸上部が強いわけではなかった。しかしそこで体験した駅伝に楽しさを感じ、高校は埼玉県でトップ3に入るような、駅伝に強い学校に入学した。当初は部活に力を注ぎながら、市民マラソンにも出場するつもりだったが、それはほとんどかなわなかった。

「高校の練習はすごく厳しくて、「勝手に市民マラソンにエントリーするな」と言われたので、市民マラソンはほとんど出られなくなりました。年に1回くらい、高校の先生が作った練習メニューに市民マラソンが入っていたので参加することができたくらいです。市民マラソンからは離れて、トラックや駅伝を走る生活になっていきました」

強度の高い練習は週に3回、4回。しかも練習メニューはその日にならないと教えてもらえない。前の日に頑張りすぎて脚が重くても、今日はどんな練習がくるのかは分からない緊張感が常にあったと言う。

第7回川内の郷かえるマラソンにて、ハーフマラソンの部でゴールする川内選手

また、強豪校に入ることは、部内の競争に参加することでもある。駅伝メンバーに入るために無理をすることが増え、怪我を繰り返ししてしまう。

「高校2年生の1月に怪我をしました。強い高校だと練習のときから頑張らないとメンバーに入れないので、駅伝メンバーに入りたいからと焦っていた結果、故障の泥沼にはまってしまいました。良くなってくると無理してダメになると言うのを繰り替えしていました」

高校3年生のときはインターハイ予選にも出られず、他のレースも、エントリーしてもほとんど出場できなかった。

「常に痛みを抱えながら走っていて、休んでも治らなくて、走ったとしてもごまかして走っているのでいずれ無理が来る。そのときは本当に楽しくなかったですね」

夏で引退する同級生や先輩も多い中、京都の全国高校駅伝「都大路」出場への夢と「自分から走ることを取ったら何が残るんだろう」と言う強迫観念で走り続けた高校時代。埼玉県駅伝3位入賞や関東高校駅伝7位など、故障に悩むようになるまでは充実した日々を送ったと言う。

自由を得た大学時代

進学先を選ぶ際には、真剣に卒業後の就職まで考えた。幼少期から観光が好きだった川内選手は、町おこしやイベントに携われるような職業を目指して学習院大学政治学科に志願した。さらに卒業間際に父を心筋梗塞で亡くし、母子家庭となり、弟も2人いたので公務員を志願する気持ちも強くなった。

志願校選びには、もう1つの基準があった。それは箱根駅伝の常連校を避けることだ。

「高校時代は強迫観念で走っていた部分がありました。だからどうやったら楽しく走れるかと考えていたんですね。楽しく走るためには、陸上が強くない大学に行けばいいんだ、と思ったんです。学習院大学だったら、自分も生まれ変われると言う確信がありました」

川内選手の読みは当たった。学習院大学での陸上生活は、ランニングに対するアプローチを大きく変えることになった。

Yuki Kawauchi smiles as he is being interviewed

大きな変化は練習の数だ。1日に最大3回練習することもあった高校時代と比べ、1日1回になった。そうやって体に回復をする時間を与えることによって、怪我が減った。練習と休みのメリハリがついて、気も楽になった。強度の高い練習も週3、4回だったのが2回になり、練習メニューも2か月先まで出ていたのでそれに合わせて間のジョギングの距離やペースを調整できるようになった。当日まで練習メニューが分からない高校時代とは大きな違いだ。

「練習が休みの日に山に走りに行ったりしたりとか、都内で観光ランみたいなこともしていました。目白のキャンパスから、その日の気分で浅草寺や東京タワー、日本橋まで走ってみる……と言うふうに、普段のジョギングに観光的要素を入れるのが楽しくなってきました。そうやっているうちに、昔は強制的にやらされていた部分もあったし、タイムや結果を出すのも嬉しいけれど、単純に走ることも楽しいじゃないかと言うのに気づきました」

「陸上が強くない大学だからと言ってふざけているわけではなくて、真剣に、よく考えながらやっていたんです。そこで考え方も変わって、楽しくやりながら強くなりたいなと言う方向にシフトすることができました」

旅とランニング、再び

そんな川内選手が初のフルマラソンを走ったのも大学時代だった。調整期間が1か月しかなかったため、出場をやめるように言われた。しかし、東京マラソン出場のための基準タイムを切るために出るのだと監督を説得し、無理のない走りをすることで許可を得た。

別府大分毎日マラソンの出場が決定することで、川内選手はもう1つの「ご褒美」を得ることができた。

「九州に行きたかったんです。大学時代当初は、高校時代に出られなかった市民マラソンに出ていたんですけど、思い描いたことと違って九州にも北海道にも四国にも行けませんでした。飛行機もほとんど乗ったことがなかったので、飛行機に乗って別府大分に行きたいぞと」

しかも初のフルマラソンと言うこともあり、完走後は1週間の休暇ももらえた。川内選手は別府から船に乗り四国に向かい道後温泉へ。その後丸亀により、そこから瀬戸大橋を渡り倉敷に行き、岡山で後楽園を観光し、さらに大阪で大阪城を見て、たこ焼きを食べて、東京に戻った。

Backshot of Yuki Kawauchi running

肝心の初フルマラソンもすごかった。

「初めは監督との約束通り、32キロまでは我慢するつもりでした。でも27キロから折り返しになったところで追い風になったんです。さっきまでは集団の中でおしゃべりをしていたのに、そこからバッと飛ばして走ったら、どんどん前にいた選手を追い抜かしてスルスルっと上がっていきました。ついでに目標の2時間27分どころか2時間20分も切って、結果は2時間19分26秒。初マラソンで初めてのサブ20が出てしまいました」

気持ちよく走って、将来のギネス世界記録につながるサブ20を達成したのだ。

ちなみに「本番」と位置付けていた東京マラソンでは、ゴール後医務室に40分滞在しなければいけないほどの苦しさに見舞われた。手がしびれて過呼吸になったが、別府大分毎日マラソンと1分しか変わらなかった。

最強市民ランナー

学習院大学を卒業すると埼玉県庁に所属し、公務員の傍ら市民ランナーとして活躍する川内選手。しかし就職の場面でも大きな選択を決断していた。

「地域復興に携われるように、最初は国土交通省の観光庁に行こうと思っていました。行く気満々で内々定までもらったんです。しかし最終面接のときに、君みたいに箱根駅伝を走ったような経歴の人は初めてだと言われました。一方で埼玉県庁の面接では、いつまでも走り続けてくださいねと言われて。これなら埼玉県庁に行ったら、走れるんじゃないかなと思ってしまったんです」

小学校1年生から埼玉県に住み続けてきた川内選手は、愛着のある埼玉県に尽くしながら、ランニングも続けられるのではと考え、観光庁に辞退の連絡をした。埼玉県で町おこしをする意気込みで入庁したが、配置されたのは夜間高校だった。

夜間高校の給食費を集めたり、現金で払われる授業料の領収印を押したり、入札や支払いをしたりと、庶務全般をこなした。

第7回川内の郷かえるマラソンにて、ゴールした走者を誘導する川内選手

想定していた仕事内容ではなかったが、夜間高校勤務の性質を活かして、トレーニングをうまくこなすことができた。

「(夜間高校の)生徒が来るときはお昼から出勤で夜の9時まで、そこからさらに残業を入れるのには限度があるので、恵まれたシフトでした。空いている午前中にガツンと一生懸命こなせば、あとは1日練習しなくて済んだんですね。大学時代の延長線上で強くなれたかなと思います」

川内選手をさらに強くした要因はまだある。2011年の東京マラソンで2時間8分をマークし、3位入賞で日本代表になったことだ。これにより知名度がさらに上がり、全国の市民マラソンから招待選手として呼ばれるようになり、毎週のようにレースに出場するようになったのだ。「レースは練習」と言うフレーズはメディアにもピックアップされ、『川内メソッド』と呼ばれるようになった。

「レースに出ると給水してもらえて、タイムを取ってもらえて、道路のど真ん中を走れます。普段1人で練習しているよりも、はるかに強度が高い練習になります。しかも場合によってはライバルも出てきます。ライバルと競っていると負けても勝ってもいい練習になります」

この方法を繰り替えしていくうちに、2013年・2014年には別府大分毎日マラソン優勝、仁川のアジア大会銅メダルと、数々の結果を残していった。そして2018年にはボストンマラソン優勝の快挙を成し遂げる。市民ランナーと言う一見ハンディとなりそうな立場を活かし、逆転の発想で独自の方式を見出した結果だったのは間違いない。

大会に出続けてタイムを残していくことで、思わぬ副産物も生んだ。2018年3月までに78回フルマラソンを2時間20分以内で完走したことを受け、ギネス世界記録に認定されたのだ。

「サブ20の前記録保持者(76回)は40年かけて達成したものなのですが、それを私は10年弱でやれてしまいました。レースを本気で走りまくり始めた最初のころは、出すぎだから絞った方がいいよと結構言われました。結果的に「いやいやいや、だって他の人は長期合宿にも行くし平日もガンガン追い込んでるんだから、レースで追い込まなきゃどんどん弱くなる一方でしょ」と自分の意志を貫いたのが、結果的にいろんな意味で良かったのかなと思います」

公務員業務大成、プロへ

公務員ランナーとして活躍してきた川内選手だが、一種のスランプが訪れた。

「2018年、天気に恵まれてボストンマラソンで優勝することができましたが、それ以外の実績はなかなかひどいことになっていました。2時間10分切れても9分が精いっぱいで、8分と言う記録は全然出なくなっていました」

現状打破を図るため、新たな策が必要になった。そのヒントをくれたのは川内選手の弟、川内鮮輝選手だった。

「弟は大学卒業後、3年間民間企業で働いていました。しかし残業が多すぎると言うことで、プロになって結構自由に走っていて、自己ベストを更新できていたんですね。それを見て、プロになれば自分もマンネリ化を打破できるんじゃないかと思ったんです」

Yuki Kawauchi running in the woods

同時に、公務員の仕事も佳境を迎えていた。2018年は川内選手が配属されていた久喜高校が100周年を迎える年で、100周年記念誌の制作に注力していた。それがとうとう完成間際だったのだ。

「久喜高校の伝統を調べ直して、冊子を作る協力がしたいと立候補しました。後半3年間は、ルーティンワークをとにかく早く終わらせて、100周年の仕事を徹底的にやりました。結果いいものができて、OGやOBの皆様に喜ばれて、出版社の方にも「最近でこれだけ立派な100周年誌を作るのはめずらしい」言われるくらいのものができて、自分の中では「公務員、やり切ったな」と感じました」

そして2018年度は川内選手にとって公務員勤務10年目。翌年は異動の年でもあり、昇進試験を受けられるようになる年でもある。つまり、公務員として出世をするか否かの選択を迫られたのだった。

「出世したいのか、マラソンをもっと極めたいのか……。天秤にかけたときに、やっぱりマラソンをやりたいんじゃないかと。そしてプロになって全国を回れば、公務員になってもともとやりたかった地域振興やイベントができるんじゃないかなと思いました。スポンサーの目星はなかったんですけど、思い切ってプロの道を選びました」

Win-Win-Win

プロ転向を決めた川内選手は、スポンサー候補を探し始めた。プロになって大会で活躍するのはもちろんだが、同時に日本全国でイベントや講演を行うことをイメージしていた。しかしそれを提案してくるスポンサー候補は、すぐには表れなかった。

「スポンサー候補の多くは「君が我が社の社名をユニフォームに入れて走るのが楽しみだ」とか「東京オリンピックの日本代表になることを期待している」と言うという話ばかりでした。でも私の中では、ちょっと違ったんですよね。もともと町おこしをやりたかったので、それをプロになって仕事にすることによって、日本全国をあちこち回っていきたいなと思いました。それを言ってくる企業がなかったんです」

しかし、今までとは全く違った反応を示したスポンサー候補が現れた。あいおいニッセイ同和損保だ。川内選手とともに、全国各地で行われるレースやイベントで、それぞれの地域にある支店支社の社員と一丸となって町おこしがしたいと提案したのだ。

「私が何かを言う前に提案いただいたんです。それを聞いた瞬間に「私がプロでやりたい内容と同じことを言ってる!」となりました。それを”マラソンキャラバン”と言うパッケージにしてノウハウをためていって、日本全国で、地域の特性やニーズに合わせて開催したいと言われました。自分の競技実績を伸ばしながら、ずっとやりたかった町おこし・地域振興を日本全国でできる。ここしかないと心の中に決めました」

そして2019年4月にプロに転向した川内選手。仕事の内容が大きく変わった川内選手。特に、今までの公務員としての庶務の仕事の代わりに講演やイベント参加そのものが仕事になったことが大きな変化だったそうだ。

「公務員のときはほとんど講演は受けませんでした。たまにやるとしても埼玉県内や母校が多かったです。しかも公務員で副業は禁止なので、無償でやっていました。なので、仕事ではなく仕事と趣味の間をぬって無理くりやるのが講演だったんですけど、今は講演が仕事になったので、講演の資料を作るのも仕事ですし、しゃべるのも仕事です。これは大きな変化でした」

第7回川内の郷かえるマラソンにて、マラソンキャラバンの企画に参加する川内選手

そして、あいおいニッセイ同和損保と行う「マラソンキャラバン」はスタートして4年経過した。マラソン大会に限らず、ランニングイベントや講演だけでも、いろんな形で行った。

「支店支社も全面協力で、下準備から交渉までいろいろやっていただいて、マラソンキャラバンを盛り上げてくださいました。自治体が記念大会をやる際、川内を呼んだら地域のあいおいニッセイ同和損保の社員が協力してくれ、賞品まで提供してくれると喜んでもらえます。地域にとっても、スポンサー企業にとっても、私にとっても嬉しい「win-win-win」の形で、マラソンキャラバンはより洗練されていってきていると思います」

君だから目指せる「世界一」

プロに転向して4年目を終えようとしている川内選手は、意欲的な目標を多く掲げている。フルマラソンの自己ベストはもちろん、その他の距離でも自己ベスト更新を狙う。そして大会での上位入賞、2023年のMGCでの健闘も欠かせない。地域振興については、マラソンキャラバンで47都道府県すべてを回ることが当面のゴールだ。

川内選手が持つサブ20のギネス世界記録は、2021年に100回達成するも、まだまだ更新する見込みだ。区切りのいい数字がきたら再申請を行う予定だと言う。しかし本人が狙っているギネス世界記録はサブ20のタイトルだけではない。

「例えば仮装をして行うマラソン記録でも、私でなければできないものがあれば挑戦していきたいなと思います。そうすることで、マラソンって面白いなと思ってくれるだろうし、そういったギネス世界記録もあるのか、と言うふうにいろんなことを感じてくれれば嬉しいなと思います」

Yuki Kawauchi after Kawauchi half marathon

これまでの人生で紆余曲折を経てきた川内選手。高校時代までは上を目指すとか、競技でナンバーワンにならなければいけないと考えていたが、今では、他の大多数の人たちと同じ目標や夢だけに特化しなくてもいいと考えるようになったと言う。

「例えばマラソンだとオリンピックや日本代表といった夢や目標だけのためだけに頑張らなくてもいいんじゃないかなと思うようになりました」

「最終的には自分自身が楽しくて、自分が「やったな」と満足できることであれば、それは仮に周りから何を言われても、すごくいいことだと思います。自分の得意なものを最大限に活かした、他の人たちとは違うベクトルのものを目標にすれば、人生が豊かになるはずです。今目標に苦しんでいる人がいたら、その目標設定自体を考え直して、それをちょっとずらす発想ができれば、気持ちが楽になって、もっと前向きになってくると思います」